トップ会社を知る山本製作所の歴史

山本製作所
歴史


大正・昭和・平成・令和
日本の食と環境を
守り続ける歴史




創成期

1918 - 1935 大正7年 - 昭和10年 前身となる「山本商会」設立

鎌の行商を生業にしていた山本惣治郎は、1918(大正7)年に前身となる山本商会を天童町(現天童市)に創業します。当時は養蚕業が盛んな時代。創業の10年前には、すでに桑切機を製造していました。手作業から機械へ。時代の変化に気づき、潮流を読む惣治郎の才力は、農業へ変革をもたらします。
しかし、好況だったのも束の間、アメリカで起きた大恐慌の影響で日本では繭の価格が暴落。多くの養蚕農家は確実に収益を得られる米生産へと移っていきました。そこで惣治郎が着目したのは人力脱穀機。試行錯誤を繰り返しながら、当社初の脱穀機「千歳式横綱号」を完成させます。1934(昭和9)年には「山本式日吉号」を発売。今日の当社の土台を築く、大ヒット商品の誕生です。

福島式桑切機

山本の農機具開発はとどまるところを知りません。大正時代、田植え前に田んぼを平らにならす代掻き作業は、「馬鍬(まんが)」と呼ばれる道具を用いて馬や人力で行っていました。そこで土塊をより細かく砕けるようにと改良を加えた代掻き機を製造。また、田起こし作業の「砕土機」を製造したのもこの頃。いずれも性能が良く、作業が容易になると評判を呼び、大いに売れたそうです。
昭和に入ると米選機の開発にも着手。当時、全国に普及していた2社の米選機を分析・研究し、両社の長所を併せ持つ機械をつくりあげたのです。この「山本式米選機」は製造が追いつかないほど注文が殺到し、農業機械メーカーとしての地位を確立していきます。

1931(昭和6)年に勃発した満州事変を起因に、世の中は混沌とした時代へと突入していきます。物資は配給制となり、産業・経済もすべて国家総動員法のもとに統制され、当社も苦難の道を歩むことになります。「会社を守るためには組織化が必要だ」と考えた惣治郎は、野鍛冶や鋸鍛冶屋など山本に関わる人たちに呼びかけ、「鉄工機械器具工業組合」をはじめ次々と組合を結成していったのです。

山本式米選機

天童町長となり多忙を極めていた惣治郎に変わり、陣頭指揮を執っていたのは、その後2代目社長となる惣太でした。「戦争が長期化しても食糧問題は不可欠。農機具の需要は増加する」と戦後を見据え、1935(昭和10)年に天童市糠塚の土地(3000坪)を購入。街の中心部から郊外への工場移転を決めました。その決断に惣治郎は消極的だったものの、「会社の繁栄こそ自分に与えられた至上命令」という惣太の思いが揺らぐことはありませんでした。

第2工場(天童市糠塚)


1936 - 1954 昭和11年 - 昭和29年 「山本製作所」の誕生

1936(昭和11)年に山本商会は合資会社へ。1944(昭和19)年には「合資会社山本製作所」と改称します。さらには、終戦から1年も経たず、新工場の建設に着手。建設用の材料の調達には多くの障害がありながらも、木工部が入る第1工場(駅前)、事務所とプレス、機械、組立の3棟からなる第2工場(糠塚)が完成しました。ところが、1949(昭和24)年に糠塚工場が消失するという思わぬ事態に。そうした状況の中でも1日も休むことなく、約1か月後の新工場完成まで作業を続けたと言います。

農機具メーカーとして全国的に名声を高める契機となったのは、「山本式切落しカッタ(藁切機)」の成功に他なりません。忘れてならないのはベースとなる「シリンダー型カッタ」の製造権を山本へ譲渡してくれた発明家石井梅蔵氏の存在。惣太は「石井さんあっての山本」と彼への敬慕の念を持ち続けました。改良を繰り返し、1947(昭和22)年に、兵庫県主催の「再建日本農業博覧会」でようやく金牌を手に。終戦後の混乱した業界に登場したこの製品は、堆肥作りと酪農勃興の波に乗り、たちまち普及していきました。その後も改良を重ね、小型化に着手。山本式カッタ「ポニー号」と命名された小型細断機カッタは、他メーカーの追随を許さない確固たる地位を築きます。

山本式カッタ「ポニー号」


隆盛期

1955 - 1964 昭和30年 - 昭和39年 山本の名が全国へ

1958(昭和33)年に敷地を拡大し、天童市糠塚に会社全体を集約します。この年、国から「中小企業合理化モデル工場の指定」を受けます。山形県内では1社のみ。経営における管理が良好で、中小企業の模範となる会社であることのお墨付きを得ました。
さらには、札幌、小山、名古屋、大阪、福岡と全国に営業拠点を設置し、販売の充実を図っていきます。惣太が2代目社長となって6年後の1961(昭和36)年8月、「株式会社山本製作所」が誕生。あらたな一歩を踏み出します。

農機具は、木製品から鉄製へ。1957(昭和32)年頃から平型乾燥機の開発に着手し、新製品「KB-1」を発売します。その後、素材を含め、改良を重ねて販売した「KB-4」は大ヒット。ハードボード製「KB-5」、ダンプ式の「KD-6」、エレベーター式ホップ用「KH-1」など新製品を相次いで発表。破竹の勢いは止まらず、1964(昭和39)年には飼料細断機「自脱カッタ」、整地用の「ロータリティラー」、牧草処理機「ワッフラー」など約10種類もの農機具を開発します。多くの発明によって山本の名はさらに知られることとなります。

平型乾燥機第1号


1965 - 1979 昭和40年 - 昭和54年 向上の一路に終点なし

構想に約1年半をかけた新工場の建設がスタート。「作業効率を高め、経費の大幅削減により製品のコストダウンを図る」「全社員が働く喜びと誇りを持って働ける環境をつくる」ことを目的としたもの。第1期工事(昭和40年7月~翌年3月)、第2期工事(昭和41年6月~翌年6月)、第3期工事(昭和42年3月~同年8月)、第4期工事(昭和45年6月~同年11月)の4期に分けて行われた大工事は、5年という歳月をかけてようやく完成の日を迎えることになります。

本社工場全景

1968(昭和43)年、当社は創業50周年を迎えました。惣太は社員に対し、「感謝、反省、前進の旗印の下、『向上の一路に終点なし』をモットーに邁進していく」との決意を伝えました。また、創立記念日を機に、無欠点、欠点ゼロを目標とする「ZD運動(ZERO DEFECTS CAMPAIGN)」を全社挙げて展開。社員一人一人の工夫によって製品の品質不良をゼロとする目標が掲げられました。
1972(昭和47)年には、県内の産業界において発明や生産振興、発展に貢献した個人、団体を表彰する「第1回山形県産業賞」を受賞。経済的視点だけでなく、会社全体の諸対策、製品の優秀性などあらゆる角度から評価されました。

ZD運動

昭和40年代は、毎年のように新商品が発表されました。創業から50年という節目の年に誕生したのは、循環方式を採用したタテ型の乾燥機「ニューサイクル乾燥機(NCD-17型)」。低温大風量のこの製品は、他社と一線を画すものとして大いに注目されました。農村では機械化が進められ、日本の農業は少しずつ新しい時代へ。脱穀性能を格段に向上させたハーベスタカッタやニューサイクル乾燥機は、次世代の農業発展につながるものとして大きな脚光を浴びます。

NCD-17型

昭和45年から本腰を入れ始めた減反政策により、農業を取り巻く状況は大きく変化していきました。その状況下に対応する策として開発されたのが大豆収穫関連機械です。生産現場を訪れ、栽培から出荷までの工程を徹底的に調査し、誰でも操作が可能で、作物の状態や多品種に対応できる機械を開発。市場のニーズを的確にとらえた先見性といち早く機器を投入した営業力と生産力のシナジー効果で、大豆収穫用の機械は大ヒットにつながりました。大豆の山本、汎用の山本として現在まで続いています。困難な時こそビジネスチャンスを生み出す可能性を秘めている、積み重ねてきた一つ一つの経験と実績が当社の礎となっています。

1975(昭和50)年、当時副社長の惣一は大規模な組織改革に乗り出します。「組織は人のためにあるのではない。環境と会社の内容に応じて絶えず変化していかなければならない」という考えのもと、社員一人ひとりが持てる力を存分に発揮できるように、人材の再開発と若手人材の活用の強化を図っていきました。現在の組織のベースとなる部署の配置もこの時からです。
「農業機械の研究開発は我々メーカーに与えられた責務。国内のみならず東南アジアなど、その国に適合する機械を提供し、窮迫する食糧事情の解決に役立てたい」との思いから、この年、山本農業機械研究所を設立。その理念は今も変わることはありません。

大豆脱粒機YBT-60A


成熟期

1980 - 1987 昭和55年 - 昭和62年 「技術の山本」の真髄

3代目社長に就任した惣一は、中国へ種子乾燥プラントを輸出したのをきっかけに東南アジア、中近東、南米への市場開拓を進めました。海外でも山本の名が知られるようになります。
また、1982(昭和57)年には東根大森工業団地に約2万坪の土地を購入し、拠点を天童市から東根市に移します。翌年7月に新工場が完成。大型機械にも小ロット生産にも対応が可能となり、あらたなステージの幕開けとなりました。

東根工場全景

大型機械が開発されたこの時代。アメリカの丸ビン(円筒型穀物乾燥兼貯蔵装置)からヒントを得て開発された累積撹拌乾燥貯蔵装置「スタアデポ」は、3年に及ぶ期間を経て生み出されたもの。省力化と大容量に対応するこの機械は、次世代の乾燥機として期待されました。
1983(昭和58)年に販売されたZ型乾燥機は全高2mというコンパクトなサイズから、小規模農家の需要と合致し、年間5,000台を売り上げるヒット商品に。さらに、翌年発売されたワイドホッパを組み込んだX型乾燥機は、これまでの乾燥機のイメージを覆す商品として大きな注目を浴びました。これらの自信作を持って、1984(昭和59)年に「530X作戦」キャンペーンを展開します。これは、5年の期間で我が社の乾燥機シェア30%以上を目指すというもの。全社員一丸となって取り組んだ結果、5年後に目標を達成することができ、現在の山本の礎を築く大きな助けとなりました。

Z型乾燥機

X型乾燥機


1988 - 1997 昭和63年 - 平成9年 70年を新たなスタートの起点に

山本製作所は1988(昭和63)年に創業70周年を迎えました。社長の惣一は「今日の繁栄が明日の繁栄を約束してはくれません。猛烈なスピードで変化する環境に対応するため、『創造と知恵』で果敢に『実行』し、飛躍を図っていこう」と所感を述べました。ますます激しい競争の時代に入っていく我々の業界。社員を支える家族、仕入先、協力工場、販売関係先をはじめとする多くの方々の支援と協力があることを改めて認識し、創業から70年のこの年をスタートとして新たな飛躍を誓いました。

さまざまな製品開発が行われる中で、X型乾燥機は発売以来、「530X作戦」キャンペーンの効果もあって順調な伸びを見せ、業界トップの座を維持し続けました。まさに、乾燥機躍進の時代。また、長年取り組んできた自然的乾燥原理を応用した独自の貯蔵システムをさらに推し進めていくことが求められました。
さらに、70周年を記念して建設した技術開発センター及び実験棟の完成により、従来の商品改良に加え、技術力を強化し、新製品の創出に力を注いでいくことに。

平成に入り、日本では農業人口が減少し、農村の過疎化が深刻化してきました。一方で、世界に目を向ければ食料危機が危ぶまれ、異常気象の影響から食料事情は逼迫した状態に。業界が低迷するなか、当社では従来のポストハーベスト関連商品を充実させ、グリーンビジネス・環境関連機器の商品開発に取り組んでいくことを新たな方針として示しました。

従来のタテ形精米機を応用し、コイン精米機を製造したのは平成元年。当時は、下から上へ流れる精米機と無残留のスパイラルコンベアを開発、白米の白度調整について改良を重ねてつくり上げました。コイン精米機は、「こめ太郎」として現在も多くのユーザーから愛用されるロングセラー商品です。
平成5年からは穀物の貯蔵施設「カントリーエレベーター」事業にも参入。断熱性を備え乾燥貯蔵が可能な「スタアデポ」を採用した大規模なカントリーエレベーターが県内外で建設されていきました。

コイン精米機

累積撹拌乾燥貯留装置「スタアデポ」

環境関連機器業界に参入したのもこの頃。当時、プラスチック価格が高騰し、再生材の需要が増加していました。農業機械とバーナ技術を持ち合わせる当社に商社から白羽の矢が。発泡スチロール減容機をつくることになったのです。処理温度が高いことから安全性を担保するための様々な工夫が図られた結果、故障が少なく処理能力の高い低コスト商品が完成。このことがきっかけで環境関連機器業界においてもトップブランドとして君臨することになります。

発泡スチロール減容機


1998 - 2005 平成10年 - 平成17年 創業の精神に立ち帰り、全員経営へ

創業から80年になる1998(平成10)年、日本の農業はかつてないほどの大きな危機に直面していました。「先人たちの苦労を知らぬまま組織に埋没してしまってはいないか、大転換を迫られている今だからこそ、創業の精神に立ち帰ることが大事なのではないか。このような風潮は組織を硬直化し、沈滞化を招く。改革を嫌えば、新たな発想は生まれない」。惣一は社員に呼びかけました。大競争時代を勝ち抜くためには社員全員が厳しい現実を受け入れ、「なんとかなる」ではなく「自分がなんとしてもやる」という積極的な姿勢が必要。「全員経営」を目指していこうと決意を新たにしました。

他メーカーとのプロジェクトに積極的に取り組んだのもこの頃から。生物系特定産業技術研究推進機構からの依頼を受け、乾燥機メーカー5社と共同開発した「遠赤乾燥機」は、市場に大きなインパクトを与えるものでした。当社は独自の強みを活かし、熱風路内に遠赤放射体を設置。試行錯誤を繰り返し、5年の年月をかけてようやく完成させたのです。熱の伝わりに無駄がなく、省エネの実現と、天日乾燥したような食味の良さは大きな反響を呼ぶことになります。

遠赤乾燥機


飛躍期

2006 - 2011 平成18年 - 平成24年 地球環境を守り、食の安心安全と健康を守る

2006(平成18)年、惣一からバトンを受け継いだ丈実が4代目の社長に就任します。「農業を大切にすることは地球を大切にすること」。安心・安全な食を守るためにも農業はなくてはならないもの。ポストハーベストメーカーとして農業を維持するために環境負荷の低い商品を提供し、「地球環境」と「食の安心安全と健康」を守ることを指針として、さらなる飛躍を誓いました。

地球温暖化が世界的な問題となり、商品開発においてもサステナビリティの観点が重視されるように。ストーブ業界でも木質バイオマスの利用に再び脚光が集まり、当社でもこれまで培ってきた技術力を生かし、課題解決に向けた製品開発を行っていくことになりました。これまでの燃焼技術を他用途に転用するには多くの困難がありましたが、平成15年に国内初となる自動着火ペレットストーブ「Woody」を、その3年後には温風式の「ペチカ」を発表することができました。

デザインによって地域の産業振興を図ろうと「山形カロッツェリア研究会」が発足したのもこの頃です。工業デザイナーの奥山清行氏をコンセプターに、鋳物、木工、繊維の3分野でモデル製品の開発が進められていきました。当社では、3年前に発売されていた鋼板製のペレットストーブ「ペチカ禅」のリニューアルに着手。また、地元の鋳物企業、菊地保寿堂とのコラボにより誕生した「禅」は、モダンなデザインも相まって好評を博しました。

木質ペレットストーブ「禅」


2012 - 2018 平成25年 - 平成30年 ワクワクは続く、これまでも、これからも

平成24年から始まった“私の世界一周の旅”は、「世界を肌で感じ、国際的な視野を持ってもらい、今後の仕事や人生に役立ててほしい」との思いから、年齢性別関係なく、全社員を対象に実施しているもの。希望者は世界一周プランを提案し、プレゼンテーションを行います。選ばれた社員(毎年最大2人)が自己磨きの旅へ。「地球の神秘・自然・歴史を肌で感じるスローライフな“幸福”旅行」「好感度の高い国を旅し、Coolを見つける!」「世界でキラリと輝くブランドからモテる秘訣を学ぶ旅」など、これまで選ばれた社員のテーマはそれぞれ。

2012(平成24)年、6年後の創業100周年にむけ、「社員生活ビジョン」を策定しました。仕事を通して成長し、「夢」を語り、「夢」が叶えられる「協働の職場」を提供していくことが目標として掲げられました。
また、100周年プロジェクトメンバーと中期経営計画策定メンバーが中心となり、コーポレートアイデンティティを刷新。経営理念にある3つの「つくる」を「Y」の字に表現したシンボルマークやロゴ、制服などのデザインも一新しました。

2018(平成30)年、当社は創業から100周年を迎えました。記念式典、協力会社に向けた祝賀会、全国代理店会議、様々な社内行事が行われ、盛大に100歳を祝いました。また、ユニークな記録への挑戦も。当社とは切り離せないお米をキーワードに、320人の社員分と事前に社員家族が折った折り紙も合わせ、「折り紙で作ったおにぎりの最多展示数」で見事ギネス世界記録に認定されました。「今の山本があるのは、お客さまや地域の皆さま、諸先輩方など様々なつながりやご縁の“結び”があったからこそ」という思いを込め、感謝の気持ちを折り紙に託しました。


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